中庸が目標

日記系になるのだろうか。予定は未定。 発言したいときには発言できないと。

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混沌と秩序

混沌と秩序とでの揺り返しで、世界は、いや、自分は、あちらにこちらにと、流される。 何かあるらしいが、自分が分類できない状況、というのは、「混沌」と認識している。 対して、何かしらの分類方法を天下り的に与えられ、それに従って認識した世界を分類したときに、自分は一種の「秩序」を得たと感ずる。 この際、錯覚であろうが誤解であろうが関係ない。 自身がそのように感じたからだ。 後の自分が、「やっぱり納得いかねー」ということも十分に起こる。

さて、どうして自分は、天下りてきに分類方法を受け入れるのか。 それは、自分が、本質を理解していないからだ。 ここでいう「本質」という言葉には「正解」という意味を含ませる。 自分の好みの言い方ではないが。 そして、「正解」という語には「正解は無いものだよ。自分の好きにすれば良い」というのも正解である、という意味の可能性も持たせる。 自分はそれを納得はしないが。 なぜなら、それは納得しない自分に何も有益な情報を提供しないからだ。 もちろん、情報を活かせるようになるまでには、それに適した時期というものがある。 それに適した使い手の熟練度、というものがある。

例えば、現在の要素還元主義を用いた科学的手法というのは、多段の構造を仮定して、より基本的な単位のモノによる振舞いを理解できれば、それから成る集合体の振舞いも説明できる。というものだ。 これを見る限り、この手法は「秩序」を与えようとしている。

では、これに対する方法として、「混沌」を利用した現象理解の方法とは無いのだろうか。 残念ながら、今までの僕の知識では知らない。 でも、本当はあるのかもしれない。 しかし、仮にそのような手法があるとしても、上記のような「混沌」と「秩序」とで分類された手法を使おうとしている時点で、それは「秩序」だった手法選択をしていることになる。 結果としてだが、そのような理解ができるからだ。 分類したがる人がいれば、の話だが。 おそらく、認識している世界が異なる他人とは、秩序としての論理を用いてしか、今のところ、本意にしろ不本意にしろ、合意に達することができないのであろう。

ひょっとしたら、「混沌」は、ある種宗教や会話などの、「科学」と考えられていない領域では機能しているのかもしれない。

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良く、「言葉は有限である」と考えられている。しかし、自分は「言葉は無限である」と主張したい。 確かに表記される言葉は、単位文字の組み合せによって構成される。 単位文字の数が決まっており、その長さも有限である以上、それで構成される言葉の組み合せは有限ではある。 しかし、ここで新たに考慮にいれなければならない項目がある。「文脈」だ。 それは状況でもいい。発信者の状況。受信者の状況。 そして、その情報伝達の形態。直接なのか伝達なのか。 また、伝達であった場合、中継地点でどのようなフィルタリングが行われたのか。 少なくともこれらの要素を検討しないで、言葉の持つ意味を、メッセージを発信者の意図通りに解釈しようとするのは、あまりにも危険だ。 自分は無謀とすら考えている。

発信者、受信者の状況というのには、それぞれの世界認識のパターン、熟練度、というのも含まれている。 彼らが、自分の世界認識方法をとらえているのか。 そして、相手の世界認識方法を予想しているのか。相手の力量をどの程度と見積っているのか。 これだけでも難問だ。 彼等が、何層の入れ子の認識世界を予想しているのか。 これは予想するだけで、なかなかフィードバックできることはない。 気付けてた方は自分で気付くだけで、気付けなかった方に敢えて助言することは少ないだろうから。 そして、仮に助言された方も、助言されただけで、それだけの視野を得ることはすぐにはできないだろうから。

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