中庸が目標

日記系になるのだろうか。予定は未定。 発言したいときには発言できないと。

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ともすれば水は低きところへと流れる

論理療法というものの中に、ABC理論というのがあるそうです。 なんでも、人がストレスとして感じるのは、何かコトが起きるからではなく、起きることに対してその人は「こうあるべきなのに…」というようなギャップを感じるから不満を覚える、というものだそうです。 で、その「こうあるべきなのに…」が妥当なものかどうかをチェックしてみましょう、思い込みであることが多いから、という話のようです。 ここで、妥当かどうかというのは、論理的/合理的か、感情的でない/思い込みでない、という判断のようです。 で、合理的でない「こうあるべきなのに…」という信条をイラショナル・ビリーフと呼ぶらしいです。 くわしくはなんか調べてください。

まぁ、そんな視点で見ると、結構不思議に思えてきます。 自分の目の中の梁には気がつかないのですが。

ABC理論使ったら、言い訳したい放題じゃん、とか。 何やっても「○○という点で評価できることがある」とか。 「この一点のみで全否定されることはない」とか。 いや、まぁ、この理論というかこの療法の目的は、そういったイラショナル・ビリーフによる自己全否定を緩和、もしくはその否定の土台を否定しようとすることなので、あたりまえといえばあたりまえなのですが。

そんなことを考えていたら、「人間は感情を持っていなくてはならない」という信条は論破されるべきイラショナル・ビリーフなのか、ということに思い至りました。 「人間は感情を持っている唯一の存在である」とか「感情こそが人間の人間たる所以である」とか言われてそうですが。どうなんでしょうね。 他の存在に感情があることを示せていないだけなのかもしれませんし、感情が無い人間を例示することで反証できるわけです。 まぁ、後者の場合は何を人間と定義するか、という話になってしまうのですが。

それに、そもそも自分の信条がラショナルである必要があるのか、という理論自体への懐疑がありますし。 まぁ、その場合、

どちらであったら便利?

というような使い方になるわけですが。 所詮、理論は道具ですし。 現象をモデル化して説明するための。 科学というのも、科学的手法(狭義では要素還元主義)を聖典(キャノン)とする宗教ですし。

ま、なんでもいいんじゃないでしょうかね。 という自堕落な結論になってしまいました。 はい。

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