中庸が目標

日記系になるのだろうか。予定は未定。 発言したいときには発言できないと。

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我が意図に反して

ぶらうざさんのブログ: 絶望からスタートするブログ のエントリー: それ、言葉遊びじゃない? で面白いことに言及していた。

絶対的な正しさなんてない。

ということを示そうといろいろ工夫していた。

暇と興味があれば考えてみよ、とおっしゃるので考えてみた。 つけられたコメントとかを読みながらつらつらと考えてみた。 で、頭の中でひらめいた。 絶対的に正しいことは存在する、らしい。 僕のアプローチによれば。 そんな暗算をしながら車を運転して、メンタルクリニックに行き、メンタルクリニックの待ち時間にざざっと書き留めた。 で、それを見ながら今PCに入力している。 それにしても入力遅いな。 やっぱり時代はT-Codeか。

---

以下、僕のアプローチを晒そう。

最初の質問は

絶対的な正しさなんてない。

だった。 ちょっとこれを変換していこう。 で、判断可能なところで判断してみよう。

いきなりだが、最初から大きな変換をしてみよう。 「絶対的な正しさなんてない。」の反対の意味は「絶対的に正しいことは存在する。」ということだ。 いきなりの大変換だ。 ま、問題をひっくり返した、と見れば良いだろう。

さて、次に「絶対的に正しいことは存在する」を変換すると「絶対的に正しい命題は存在する。」となる。 更にそれは「どんな条件でも正しい命題は存在する。」言い替えれば「恒常的に正しい命題は存在する」と変換できる。

そして更に更に飛躍して、「正しい」を真偽値の真と対応付けることができれば、上記命題は 「恒常的に真となる命題は存在する」と変換できる。

さて、「恒常的に真となる命題は存在する」ことを示せるか考えてみた。 存在を示す方法は簡単。例を1つ以上あげればよい。 では恒常的に真となる命題とは何か。それはトートロジー(同語反復)のことだ。 つまり「aはaだ」という命題のことだ。 これで例示してしまったので、「恒常的に真となる命題は存在する」ことを示してしまった。

ちょっと言い方を変えてみよう。 反対の視点で見てみると、 「全ての命題は条件に依存し、偽となる場合がある」そんな命題が真となれば、「絶対的に正しいことは存在しない」ことを示すことになる。 だが、全ての命題は条件により偽となる、だろうか。 残念ながら答えはそうはならない。 トートロジー(同語反復)、または恒真式があるからだ。 これも反例を1つ以上示せれば偽となることが分かるので、これで「絶対的に正しいことは存在しない」ということは偽となることを示してしまった。

---

ここまでは分かった。 いいだろう。 でも本当かな。 理論で何でも片付けるのは良くない傾向じゃないの。 確かにここまでの話は単純な論理学の操作で十分対応できる。 じゃ、その先、論理学の外の世界、数学だけでは扱えない外の世界ではどうなるの。 そんなことを考えてみた。 これは文献とかも読み終わってないから、読む人はそのつもりで。

ここからは論理の外側、論理で表現できる限界を視野に入れながら話そうと思う。

さて、以前にも書いたが、人間は思考を言語化することにより更に思考を進めるというツールを手に入れた。 それがために、人間は言語というツールに頼って思考を生成、伝達させてきた。 では思考とは何なのか。 個別の事象を抽象化することだ。 抽象化された表現、つまり式は、数式・論理式を用いた推論に適用される。 つまり、数式の持つ表現力の限界が、人間の思考の限界、上に示してきた考察の適用限界なのだ。

ということを考えて、ふとヴィトゲンシュタインは論理的な推論の表現力の限界について考察していたな、と思い出した。 で、論理哲学論考 ( 例えばここ ) とかをつらつらと読んでいた。

で、要するに、まだ既存の論理の適用できない領域があれば、そこはまだ語れない領域、ということらしい。 ま、分からんものは語れんわな。

余談で、その上まだ途中だが、このヴィトゲンシュタインという人はなかなか頭が良い。 上のウェブページの日本語訳を読んでそう思った。(ん?訳者の頭が良いのか?) 基本コンセプトは興味深いものの期待の範囲内で特に目新しいものはない。 ただ、文章が洗練・錬磨されていて、外連味なんて微塵も感じさせない。 ストイックな著者による文章だ。 とニヤニヤしながら読んでいた。我ながらキモイな、自分。

文中

事実の論理像が思考である。(3)

なんてところは堪らない。 特に

命題は論理空間に一つの領域を定める。
この論理的領域の存在は、ひとえにその構成要素の存在によって、
すなわち有意義な命題の存在によって、保証されている。(3.4)

なんてところは「我が意を得たり」と膝を打ってしまった。

---

そんなことはどうでも良いと。 まとめろ、と。

まぁ、以上の考察から、絶対的に正しいことは存在することが分かったわけだ。 では、「絶対的に正しいことは存在する」この命題は正しいのか。絶対的に?

結論を言うと、正しい。(少なくとも今のところ。既存の理論を使う限りにおいては)。 これは上で背理法によっても証明できたことだ。

ただ気をつけなくてはいけないことがある。 この命題は「何が絶対的に正しいかを示してはいない。」ということだ。 絶対的に正しい命題が(何かどっかに)あること、存在証明をしているだけなのだ。 それじゃ、この命題が正しくなければ何が正しいのか、という話にもなるわけだが。

そして付け加えるべきことに、その命題も絶対的に正しいと言えるわけではない、ということだ。 それは僕が理論の持つ表現力の限界を確かめていないからだけれども。

ま、そういう難しいことはそのうち勉強するということで。

以上、 それ、言葉遊びじゃない? を読んで思い付いてそれなりにまとめれたことをつらつらと書いてみた。

---

最後に、上で紹介したぶらうざさんのエントリーで感心したところを紹介したい。 それは

絶対的な正しさなんてない。

ということを主張したいという基本コンセプトを持って思考していたことだ。

これは意地悪な見方をすれば、思い込みから思考をスタートしている、ということになる。 だが、ここを僕は評価したいと思うのだ。

訓練を積めば、思考を洗練させることはある程度可能だ。 しかし、訓練を積んでも、基本コンセプトを得る方法を洗練させることは非常に難しい。

そして、現在自明と思われていることでも、それは仮説に過ぎないという前提もある。 そう。単に今まで反例が見つけられていないだけなのだ。 確からしいという、確度が高いだけなのだ。 論理だってそうだ。公理からスタートしているから。

まぁ、そんなことを考えながら、「暑いな」と思いながら過ごした夏の一日だった。

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コメント

このコメントはこのコメントである

まず、この記事を読んだとき、鳥肌が立ちました(高田延彦風)。

>絶対的な正しさなんてない。ということを主張したいという基本コンセプトを持って思考していたことだ。
と完全に僕の意思がバレていたからです。僕の記事内では結果的に「絶対的な正しさがある」とも「ない」とも言ってません。「絶対的な正しさがない」立場を必死で擁護していた書き方から推測されたのでしょうか。それとも、僕の過去の記事やコメントからでしょうか。確かに「絶対的に正しいことはない」という思い込みによって思考していました。
「絶対的に正しい存在はある」それは、トートロジーは恒常的に真であること。つまり、AはAであり、僕は僕であり、目の前のPCは目の前のPCであること(後の2つの例は前後が同一として)は絶対的に正しい存在ということですね。僕は思い込み+論理学の知識がなさからkomatsunaさんが導き出したその結論に至ることはなかったでしょう。

僕の記事の日本語的な解釈からはkomatsunaさんの見解がたぶん正しいのでしょう。ただ、本文を書いたときは「絶対的な正しさ」という表現が意味する対象は書いてる僕も漠然としてました。昔、この問題について考えたときの最初の問題意識は「絶対的な善は存在するか」ということで、この問題意識で回答として欲しいのは「善は善である」であるというトートロジーではなく、「○○は善である」という恒常的に真になる命題であり、真になる○○は存在するのか?それは何?です。例えば(例として。論理展開の正確性は保証しません)
 「人助けは善である」が恒常的に真として成立するならば、それを前提に
 「募金は人助けである」
 「募金は善である」のような論理展開で、善悪判断可能な森羅万象に対し、善悪の判断の確固たる基準ができそうだからです。仮に論理展開ができなくても、突き詰めて善悪を考えたときに納得できる答えを探していたということですが、今回文章化したときは「絶対的な正しさはある」と最初の問題意識を必要十分に定義してなかったし、書いてる僕自身、何を定義しているか曖昧でした。

だいたい komatsunaさんの結論に納得しているのですが、「絶対的な正しさはない」と思い込んでる僕も残っていて、
komatsunaさんも
>論理の外側、論理で表現できる限界を視野に入れながら話そうと思う。
という立場を視野に入れてるようですし、その観点から場外乱闘的な詭弁かもしれない考察内容を↓に残しておきます。
------
「絶対的に正しいことは存在する」を「恒常的に正しい命題は存在する」に変換したことについてです。逆に結論から元に戻せるかというアプローチを考えてみます。
「絶対的に 正しい  ことは    存在する」に結論を入れます
「恒常的に 真となる 命題(トートロジー)は 存在する 」 
両者を比較すると「こと⇔命題」「正しい⇔真となる」は正しいとして進めますが、「絶対的⇔恒常的」という変換は妥当でしょうか?もう少し詳しくみると
「(日本語の文法的に)絶対的に正しいことは存在する」
「(論理学の規則において)恒常的に真となる命題は存在する」
「(日本語の文法的に)絶対的に」と「(論理学の規則において)恒常的に」は同義でしょうか?

反則技の思考実験として、現在は論理学もまだ発展してない中世で八百長論理学とkomatsunaさんが今回適用した論理学の2派があったとします。八百長論理学では、トートロジーは当たり前だから真としないルールだったとします。将棋で2歩を禁じるように。つまり、a=bを見つけてから議論しないといけないルールなのです。2派の場合、論理学においてトートロジーは恒常的に真となりますが、八百長論理学では恒常的に真として扱えないとします。このような思考実験を想定したとき、
{「正しい(真となる)」「こと(トートロジーという命題)」}は「存在する」という動詞で表記する場合、論理学的には「恒常的に」という副詞がつけられますが、日本語的に「絶対的に」という副詞をつけることを担保するものはあるのでしょうか?つまり、恒常的にトートロジーは真であるとする論理学の機構は”絶対的”と呼べるのでしょうか?
------
とまあ、思い込んでる僕は言ってますが、結局は日本語と論理学の整合性の問題のような気もします。”絶対的”とか”正しさ”とか定義対象が曖昧な言葉を使った場合、今回の変換に整合性があるか、です。
「絶対的にAはAであることは正しい」
「絶対的に日本語は日本語であることは正しい」
これらの日本語に違和感がない気がするので、komatsunaさんの結論はきっと成立するのでしょう。
 
最後に、エントリーから推測するにある程度時間をかけて考察していただいたこと、僕の記事内にあった『学術的な観点などから本記事の是非は確認できません。その点に見識のある方はご指摘くださると幸いです。』という観点から言及していただいたこと、このエントリーの最後に僕へのフォローを入れてくれたこと、感謝いたします。

  • 2006/08/10(木) 17:14:40 |
  • URL |
  • ぶらうざ #3xs9owas
  • [ 編集]

コメントというコメント、出て来いやっ!!(仰け反りながら)

こんな胡散臭いエントリを真剣に考えてもらえてありがたい限りです。

> 「絶対的な正しさがない」立場を必死で擁護していた書き方から推測されたのでしょうか。
はい。

> この問題意識で回答として欲しいのは「善は善である」であるというトートロジーではなく、「○○は善である」という恒常的に真になる命題であり
これはこのエントリを書く前から予想していました。僕も知りたいことでしたから。そしてぶらうざさんが「○○は善である」という記述を期待していたことも予想できていたのです。ただ、それに関しては僕は何もいえないのです。分からないですから。今回のエントリは問題を自分の解ける形に都合よく解釈して、問題自体を作り変えてしまいました。そういう意味では誠実さに欠けたエントリだったかもしれません。

> 「絶対的な正しさはない」と思い込んでる僕も残っていて
これについては手前味噌な予感があるのです。ひょっとして、絶対的に正しいものは恒真式(トートロジーを含む)だけではないのか。それ以外の命題は条件に真偽値が変化してしまうのではないか。という予感です。根拠はありません。もしそうなら、現実的に、ぶらうざさんの求める意味での「絶対的な正しさはない」ということを現実的には支持できるでしょう。ただ、このエントリで述べてきたことだけでは、「絶対的に正しい命題がなにで、いくつあるか」ということすら分かりません。ま、ちょっと詐欺みたいな話ですが。

> 「(日本語の文法的に)絶対的に」と「(論理学の規則において)恒常的に」は同義でしょうか?
ちょっとこの逐語訳に関しては首をひねるところです。
そして僕の力ではこの「絶対的に」と「恒常的に」の違いを述べられないことが残念です。絶対的に=どんな条件でも=いつでも=恒常的に、となり、あれ?と自分でも不思議に思います。なにか少しずつずれながら話をしている気がしないでもないです。

> 恒常的にトートロジーは真であるとする論理学の機構は”絶対的”と呼べるのでしょうか?
”絶対的”とは呼べないと思います。
論理学というか数学にはいくつかの基本原理を選ぶ公理系というものが存在し、選んだ公理系により導かれる結論というのは変わります。公理系の選択は歴史的な利用価値、その公理系の使い勝手、新しさなどの魅力によってその手の研究者に選択されて研究されるわけです。その公理の一つである同一律がトートロジーの根拠となっています。つまり、「トートロジーは真でいいよね」「はい、いいです」と証明なしで了解されているだけなのです。今回、僕は公理系として同一律、矛盾律、排中立を公理とする古典論理を利用しました。
僕の証明は同一律に依存しているので、同一律が成立しない公理系を選択してしまえばその正当性を証明できなくなります。ただ、トートロジーで偽になる公理系というのは寡聞にして知りません。そういった意味では意欲的な公理系の選択と言えるかもしれません。

> ”絶対的”とか”正しさ”とか定義対象が曖昧な言葉を使った場合、今回の変換に整合性があるか、です。
まったくもってその通りだと思います。

> 僕の記事内にあった『学術的な観点などから(以下略)』という観点から言及していただいたこと
学術的な観点からの見識はありません。前にも申し上げたように門外漢ですから。

> 僕へのフォローを入れてくれたこと
フォローというものではなく、そう思ったので書いたまでです。原動力としてすばらしいものがあります。うらやましく思うところです。

  • 2006/08/11(金) 18:21:09 |
  • URL |
  • komatsuna #VWFaYlLU
  • [ 編集]

お前、コメントだ(親指を突き出しながら)

まず、丁寧な返信感謝します。分かりやすく書かれた公理系の記述はためになりました。komatsunaさんの返信後に見直すと、僕のコメントはなにやらうるさいことを言ってるようにも見えてきました↓失礼いたしました(苦笑)

>これはこのエントリを書く前から予想していました。

そうでしたか。自明なことですが、僕のエントリーから誰がどのように問題を抽出して考えようが自由です。ただ、komatsunaさんのエントリーとの前提の相違の確認で書きました。komatsunaさんには蛇足だったかも、と今から思うのですが、僕的には返信で相違が確認できて良かったです。

>トートロジーで偽になる公理系というのは寡聞にして知りません。

やっぱり、八百長論理学は八百長でしたw

>前にも申し上げたように門外漢ですから。

確かに前にもそんなやり取りしました。僕が学術的な観点といったのは、将棋の初心者からすれば、アマ有段者もプロ棋士も「将棋がすごく強い人」という括りで見てしまうようなものです。だけど、アマ有段者の方が「俺はプロ棋士じゃない!」と仰るのももっともなことです。ご容赦下さい。今後、気をつけます。

>原動力としてすばらしいものがあります。

ブログに書いてるような問題を考える原動力はあるんですがね。普段はタバコ吸ってPCかTVの廃人生活です(苦笑)原動力を応用したいものです。
------
komatsunaさんの丁寧な返信を経て、僕が前のコメントのときになんとなくイメージしていたことが明確になりました。再度このエントリー、僕のコメント、komatsunaさんの返信を眺めて自分なりに古典論理で証明しようとしたときの”純粋な日本語の文法的な問題”として「絶対的に正しいことは存在するか?」をまとめてみました。

>僕は公理系として同一律、矛盾律、排中立を公理とする古典論理を利用しました。

↑からkomatsunaさんが今エントリーで利用したものを『古典論理(公理系』と称させていただきます。さらに、「絶対に正しいことは存在する」という記述は僕の目に狂いがなければ紛れもなく”日本語”ですが、日本語は”公理系”と呼べるか疑問なので、記号体系と称し、『日本語(記号体系)』とします。

今エントリーから純粋な日本語文法の問題として「絶対的に正しいことは存在する」を証明する方法を3段階に分けてみました。

1.日本語(記号体系)→古典論理(公理系)への変換
2.古典論理(公理系)内部での証明
3.古典論理(公理系)→日本語(記号体系)への再変換

まずは補足として、『2.古典論理(公理系)内部での証明』も、結局日本語で思考していると捕らえる向きもあるかと思いますが、解が存在する数学の問題を日本人が日本語で解いても、アメリカ人が英語で解いても正しく解けば、解が一緒になることから古典論理(公理系)を意識して、それに基づいて思考しているなら「2.古典論理(公理系)内部での証明」として差し支えないとします。

「1.日本語(記号体系)→古典論理(公理系)」に互換性があったかは「3.古典論理(公理系)→日本語(記号体系)」で検討するとして1を飛ばします。

「2.古典論理(公理系)内部での証明」ですが、「恒常的に真となる命題は存在する」かどうか検討し、トートロジーの同一律「aはa」という命題を例示し、「恒常的に真となる命題は存在する」は証明されました。つまり、恒真式(さっき家に記号論理学の本を発見しました)の存在を例示できればいいわけですね。


古典論理(公理系)で(同一律、矛盾律、排中律)は恒真式として扱う機構を”公理システム”と勝手に称します。日本語で表現すると「トートロジーは 恒常的に 真である」これが日本語的に正しいか否か決めるのは”公理システム”であり、それを日本語で表記しているだけです。古典論理がトートロジーを偽とすればこの文は間違いになります(そんな公理系は八百長論理学だけらしいですが)。(余談ですが、最初「恒常的に恒真式は真とする」と書いてその文自体が同語反復でしたw)

ここで、「3.古典論理(公理系)→日本語(記号体系)」です。日本語で「絶対的に正しいことは存在する」ことを証明するには、日本語の文法的な観点から絶対的に正しいことを「一つ例示すればいい」です。「一つ例示すればいい」ことは古典論理と互換性があります。ただ、日本語(記号体系)に”公理システム”と互換性がある機構を有しているか?が一番大きなポイントになります。”公理システム”では「トートロジーは 恒常的に真である」としました。これが日本語(記号体系)に写像化されたとき、どの程度残っているか?です。

A.”公理システム”が、そのまま残る。
B.古典論理「○○ は恒常的に真である」の○○はトートロジーとは限らないが、関係性が残り、日本語も「○○は絶対的に正しい」とする。
C.残らない。

A.が僕の前のコメントで想像して記述した”日本語において”「絶対的に正しいことはある。それはAはAである」
です。つまり、「恒常的に真である命題は存在する。それはトートロジーである」古典論理(公理系)が日本語(記号体系)に写像化したとき「絶対的に正しいことはある。それはAはAである」とそのまま残っていることです。

Bはおそらく komatsuna さんが想定した例であるでしょう。
>「絶対的に正しい命題がなにで、いくつあるか」ということすら分かりません。
B「○○ は恒常的に真である」と○○はトートロジーとは限らないが、関係性が日本語(記号体系)にも残る。の○○はなにか不明ですが、古典論理(公理系)”公理システム”がトートロジーを恒常的に真としたように日本語(記号体系)も○○を絶対的に正しいとするだろうということです。

C.はそのままです。

繰り返しになりますが「3.古典論理(公理系)→日本語(記号体系)」の変換で古典論理(公理系)の”公理システム”が日本語(記号体系)に写像化された場合、どうなるのか?にかかっているのだと思っています。

とまとめてみましたが、いかがでしょう?

  • 2006/08/13(日) 14:53:58 |
  • URL |
  • ぶらうざ #3xs9owas
  • [ 編集]

僕と真剣勝負をしてください!!(いやもうやってるがな)

返信が遅くなりました。すいません。ちょっと機能停止していました。

> 返信で相違が確認できて良かったです。
僕も返信をいただけて、確認できて良かったです。予想だけというのと、確認できたのとでは状況が随分と違いますから。

>>トートロジーで偽になる公理系というのは寡聞にして知りません。
>やっぱり、八百長論理学は八百長でしたw
どうか、そういう公理系を探すのはやめないでください。僕が知らないだけかもしれません。誰もその公理系を構築しようとしなかっただけなのかもしれません。誰かが挑戦しけれども構築できなかったのかもしれませんから。公理系の選択は、自分の視点、推論の枠組みを見直すことになります。知覚・表現の幅を広げることに対応します。僕が思うにとても重要なことです。

> 門外漢
関連学会に所属しているわけではないのでそうさせてもらいました。論理学の歴史について正規の教育を受けたわけでもないし、業界の流行、業界での評価などを把握しているわけでもありません。良い返事ができなくてすいません。

> ブログに書いてるような問題を考える原動力はあるんですが
うらやましい。そのような問題を問題だと思い至れる能力が本当にうらやましいです。問題発見能力が秀でている、と言えばそれっぽく聞こえるでしょうか。

---

> 繰り返しになりますが「3.古典論理(公理系)→日本語(記号体系)」の変換で古典論理(公理系)の”公理システム”が日本語(記号体系)に写像化された場合、どうなるのか?にかかっているのだと思っています。

今回の書き込み内容に賛同します。表現方法を変えたときに、どれだけ意味が対応しているのか、ということですね。

3段階に分けて証明するアプローチは妥当なものだと思います。そして、第2段階についての考察も問題ないと思います。公理系の選択により、恒真式が存在することを示せばよい、ということにも同意します。思考方法としてビールジョッキ理論までカバーしているのは十分です。(ビールジョッキ理論は単に僕の思考の好みではありますが。)

ここからは先のコメントを読んで思いついたことを書きましょう。うだうだ言って、結局分からない、というオチですが。

この写像の対応がとれるか否かは、思考内容と思考方法に依存しているのではないでしょうか。考えている内容と日本語、数学的表現が、どのような思考内容と思考方法と表現方法の関係になっているかに依るのでしょう。

例えば、あることを考えていて、それを表現するために日本語や数学的表現を使うとします。(意味する厳密さの程度の違いこそあれ、)考えていること(=1つのあるイメージ=思考内容)を(日本語や数下区的表現などの)表現方法を使って表現しているのです。これは一つのイメージをいくつかの別々の手段で表現しているだけに過ぎないのです。そしてそれらの手段が表現できる範囲にズレがあり、どこまでの精度で調整して変換できるか、にかかっているのです。

上とはちょっと違う、次の場合どうでしょうか。先ず、(日本語や数学的表現という)言語という表現手段があるとします。そして、ヒトの思考様式が関係の等値変換と対応するものだとします。言い換えれば、何か表現することによって、初めて思考が進むということです。それならば、表現方法こそが思考様式(=思考方法)を定めていることになります。思考内容が思考方法と表現方法の関数になっていると言うことです。特にこの順番に沿っていくなら、思考方法と表現方法とのループを少なくとも一回以上は使わなくてはならないため、フィードバックがかかることになります。そのループ回数が多くなればなるほど、上の例とのズレは大きくなっていくでしょう。人から人へと伝達するときには先のループを1回以上回さなくてはいけません。表現し、伝達すること自体にそのような行動の縛りができるわけです。

ちょっと自分でも整理できていない感丸出しですね。まぁ、いいです。完成度は50%でも世に出すことにします。だれか気になれば修正してください。

  • 2006/08/24(木) 23:36:24 |
  • URL |
  • komatsuna #VWFaYlLU
  • [ 編集]

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